履歴(経歴)と系図(2010/06/14 再確認による改正)

國次 秀紀(くにつぐ ひでのり/ひでき)國次=国次 昭和24年10月7日生まれ 60 
Hidenori Kunitsugu. / Kunitsugu Hidenori.

413-0002静岡県熱海市伊豆山387-2 電話0557-80-3262 FAX0557-80-3262
ダイビングショップ プロテックスジャパン代表   アクセス・施設概要

出生地 大分県別府市浜脇/朝見町に7歳まで→7歳より静岡県熱海市伊豆山へ移住.


経歴等

ダイビング歴

スキューバ歴43年  スキンダイビング(耳抜きを覚えてより)49年
昭和42(1967) 17歳の時、スキューバダイビングを始める.
昭和44(1969) 仲間と神奈川県真鶴にて「海洋技研開発」会社始める(軽潜水作業、FRP船修理).
昭和46(1971) ダイビング他の業務にてマリンテック熱海創業(潜水作業、FRP加工、建築防水).
昭和48(1973) 中部日本潜水連盟公認準指導員として指導始める(認定カード発行)
昭和60(1985) プロテックスジャパンとして再編
.

潜水指導団体

全日本潜水連盟(JUDF)ADSSDC、日本海中技術振興会(JCS)等の発会に参加.
現在では日本海中技術振興会(JCS)の組織構成メンバーであり、常任理事インストラクター
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海底遺跡の新発見と発掘(日本の考古海洋交易史、通交史に一石を投じる!)

熱海の海底(水深860m)に遺跡を発見.鎌倉中期より以前のものとして調査中.

「熱海の海底遺跡保存会」を発会し、現在も調査中で有り、テレビや国内・海外新聞にて報道される.
発見実績として和船の碇石を100本以上確認、大灯台、大桟橋/大湊、集落/神社/祭祀跡等を発見.
地域セミナー、講演会等で熱海の海底遺跡の講演を行う.


ダイビング安全指導

静岡県スキューバダイビング安全会熱海支部(警察関係)旧支部長
伊豆スキューバダイビング安全対策協議会熱海支部(保安庁関係)旧支部長
ダイバーズアラート熱海ネットワーク(東海大学医学部救命学教授山本五十年氏提唱)旧会長


ダイビングの安全に対する啓蒙

インターネットにてダイビングの知識とスキル編を発表し、現在も好評です.

「耳抜き、浮き耳と仲良くなるページ」

「ウエイトコントロール(中性浮力)必携」

【「スキューバダイバー」自分の身を守る為の予備知識】を発表
.

【「スキューバダイバー」自分の身を守る為の予備と専門の知識】現在、マニアル的要素で編集中.


ダイビングスキル(潜水技術)開発

究極のダイビングレスキュー法「水中・水面蘇生法」「水底より安全な引き揚げ法」を開発し、指導中.

国内、海外に於いてもこの方法のレスキュー法は存在せず、独自独特な技術です.

深々度、水底・水底からの移動時、浮上時、水面、浅海移動時に於ける心肺蘇生レスキュー法で有り、特に、水中に於いて肺や口の中の水の排出と蘇生、水面への安全確実な引き揚げ法を確立しました.
浮上時の肺の破裂や肺の損傷は一切無く、水中での空気(高分圧)蘇生の為、高確率で蘇生致します.
世界に誇れるダイビングレスキュー法.(スキューバ器材装着時において
)

Rescue-TDiver(EXPERT RESCUE DIVER).   Rescue-UDiver(GRAND RESCUE DIVER).

ディープダイビングレスキュー法の普及を始める.(水深40m/50m/60m以上90m迄のレスキュー法)
自己治癒潜水法の修得者だけに許されたディープダイビングに特化した特殊レスキューダイバー.
水深60mを超えて90m以下でのレスキューに於いては独自に高圧生理蘇生法の修得が必要となります.
尚、空気タンクによる
レスキュー法の為、自己治癒潜水法の修得者限定です.

国内、海外に於いてもこの方法のディープレスキュー法は存在せず、独自独特な技術です.

Deep Rescue-TDiver(DEEP EXPERT RESCUE DIVER).  Deep Rescue-UDiver(DEEP GRAND EXPERT RESCUE DIVER) .


ダイビングコンピュータ及び潜水に於ける適正/耐性/回避のテスト   試験体テストです(^_^;)

ダイブコンピュータソフト「ダイブメモリーズ」「アクティブプランナー」開発の手伝い.

ソフト開発の為のテストダイバーとして危険なダイビングを想定して減圧潜水、急速浮上テスト(30m/分以上)気泡の大きさでの浮上スピード3m6m9m12m15m18m24m30m確認.

ただし、水面までの30m/分は大変に危険であり、安全域は27m/(気道開放角度最大).
水深10mまでの浮上スピードは30m/分以上でも可能.
海面までの浮上スピード30m/分では、気道開放角度最大及び強制排気で可能.

高水深での酸素中毒耐性及び回避テスト、窒素酔い耐性及び回避テスト、高負荷潜水テストほか、現在でも検証中で有り、エア、О₂、H₂等のテクニカルダイブに於いても検証勉強中.

特に潜水に於ける潜水生理学、潜水物理学、潜水解剖学、潜水心理学を徹底的に検証.


ダイビングのスキルと知識・減圧症の相談受付

スキンダイビング全般、耳抜き、中性浮力、高気圧障害、空気塞栓症、減圧症、無菌性骨壊死等、スキューバダイビングに於けるトラブルに対してアドバイス.


2010年 減圧症の発症起因や潜水生理学の新解釈を発表 (ダイバーにとって大変に重要です)

潜水加圧時、窒素N2の体内への単体取り込みでは無く、肺血漿中で酸化されて血中アンモニア(強刺激臭・有毒性・水溶性・脂溶性のアンモニアNH3、無臭・無毒・難脂溶性のアンモニウムイオンNH4+)となり、不必要な分は低刺激臭・無毒・難脂溶性の尿素NH2CONH2と、無臭・弱い有毒性・強い抗酸化物質としての尿酸C5N4N4O3で膀胱へ排出及び貯留されるが、時として、急性の高アンモニア血症による高血糖化或いは低血糖化と脱水等が起きる危険性を秘めている。

更に、アンモニアNH3には強い毒性があり、これを無毒化するには肝臓・腎臓・心筋・骨格筋・そして脳内でも無毒化の機能が働いている。しかし、潜水中にこの無毒化機能が低下する、或いは低下し易い環境や体質ともなると、色々な障害となって体の恒常性機能が失われる可能性もあり、減圧症や高気圧障害等に掛かり易い体質・体質変化にも関係してくる.

また、アンモニアNH3と尿素NH2CONH2は細胞間を拡散移動する為、T型とU型の減圧症の発症起因性が大いにある。

尚、窒素N2としての肺からの排出は硝化→窒化・還元、硝化→酸化→窒化・還元(或いは脱窒)のプロセスを介して窒素N2に戻り、肺から排出される。

この項、詳しくはプロテックスジャパンの國次 秀紀(國次=国次)が提供するダイビング学コーナー【「スキューバダイバー」自分の身を守る為の予備知識】の減圧症の項目及び、「減圧症自己治癒潜水法」の説明ページに詳しく記載.

潜水生理学の生体維持機能を学ぶ中で、ミトコンドリアの持つ不思議な力(ミトコンドリアパワー、ミトコンドリアミステリックパワー)と、乳果オリゴ糖(別名 ミルクオリゴ糖、ラクチュロース、ラクトスクロース)の働きには驚きました(*^_^*)


「減圧症自己治癒潜水法」の高深度潜水の為のスキル(潜水技術)開発【1988年(昭和63年10月)】
1988年(昭和63年10月) 自らの減圧症/空気塞栓症を治す為に開発と実践.

減圧症、空気塞栓症(エアエンボリズム)無菌性骨壊死治癒潜水法の確立と実施.

国内、海外に於いてもこの方法の「減圧症自己治癒潜水法」等の自己治癒潜水法は存在せず、独自独特な技術と知識です.

減圧症治癒ダイビングの高圧生理学他の知識確立によって水深50m〜水深90mまでの空気潜水法を確立.

減圧症自己治癒潜水法:Decompression sickness of self-healing submarine.
空気塞栓症自己治癒潜水法:Self-healing submarine of air embolism.
無菌性骨壊死自己治癒潜水法:Self-healing of aseptic bone necrosis diving.
 

自己治癒潜水法-正規講習会:Of self-healing submarine Regular workshops. を主催.

減圧症・空気塞栓症・高気圧障害自己治癒潜水法→総じて「減圧症自己治癒潜水法」

T型関節・筋肉、U型中枢神経、脳型、メニエル型、チョークス型の減圧症全般の治癒.
ディープダイビングに於ける潜水テーブル作成(治癒テーブルとして併用可能)
一般で言われる「ふかし」では無く、通常潜水を科学し実践(1回の潜水時間は38分〜50分以内).

高深度潜水に於ける関節内へのリンパ液充当による関節炎、関節神経障害の治癒確認.
中程度水深(水深20m前後、20〜30分潜水)でのぎっくり腰無痛復帰回復治癒、脊椎ヘルニア治癒効果に抜群の回復効果.

末梢血管の拡張、白血球の増加、造骨・造血細胞への刺激等を自らにテスト.

リンパ腺胞腫(線維腺腫)の回復確認.体細胞の代謝率3040%上昇での病後回復等に驚異的な回復を示す.
白血球の大量増加に伴った免疫療法的用法に効果絶大と思われる.

これは治療では無く、身体治癒の為、自己の責任によって行う潜水です.

減圧症回避の為の「残留窒素低減(減衰)潜水浮上法」を見出す!

潜水後の高所移動、飛行機搭乗時間を考慮したものであり、また、リゾート等での繰り返し潜水時に有効とし、高濃度の酸素を使わずに、空気呼吸による残留窒素低減(減衰)潜水と浮上法です.

「減圧症自己治癒潜水法」の実践潜水で開発された「変則的変速浮上法」の中から生まれました。


減圧症罹患

自ら減圧症とエアエンボリズムに罹患するも「減圧症自己治癒潜水」にて3回の潜水で完全完治.
現在、T型肩関節型減圧症に罹患するが、自己治癒潜水法にて検証実験治癒中.ランクを付けた場合、最悪の5〜軽微1として、最初は最悪のランク5→現在は若干・軽微な圧痛と違和感のランク2〜1ですが、進行的変化が無い為に様子見として放置(笑) 通常に潜っても支障無し(20〜60m).


講演等 

ダイビング関係 第5回小田原セミナーにて「ダイバーの事故防止対策」の講演.
海底遺跡関係  観光セミナー、郷土史講演会、イワクラ(磐座)学会宮崎大会にて講演.


水中撮影協力

NHK、日本テレビ、フジテレビ、朝日テレビ、テレビ東京、大阪朝日放送、他多数 報道・ドキュメント水中撮影協力.
「所さんの大脱出スペシャル2」水中ビデオカメラマンとして参加、他多数のテレビ局バラエティー番組水中班として協力.

新聞報道・雑誌掲載

熱海新聞、伊豆毎日新聞、東京新聞、静岡新聞、サンケイ(産経)新聞、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、ASAHI-JOURNAL(環太平洋英字新聞)、プラウダ(プラウダ香港よりアジア・ヨーロッパへ配信)、共同通信社、タイ国バンコク邦字紙掲載、週刊プレイボーイ、学研「ムー」、他数社に掲載.


 

             

 

國次 秀紀---田中清輔(旧佐賀鍋島本藩藩士)家系図[國次=国次]

國次 秀紀=国次 秀紀(くにつぐ ひでのり/ひでき)
田中 清輔=(元)吉岡喜十郎 たなか せいすけ/よしおかきじゅうろう

  この系図は未だに調べている最中です。参考として目を通して下さい。

 

 

田中清輔は(元)吉岡喜十郎と云い、江戸時代末期の安政四年七月十七日(1821年)に生まれ、明治維新を駆け抜けていったが、その波乱万丈で、また愉快、尚且つ豪胆な生き様は快男児とも云える。

そのエピソードをかいまつまんで述べてみよう。尚、田中家は致聡の代に嫡男に早出された為、喜十郎と澄との婚儀によって存続。

出生は墓誌に有る様に佐賀藩着到衆の吉岡兵右衛門の二男として生まれる所から始まり、幼少期より文武に優れ、藩金による江戸昌平校に入学するも早々と卒業、また、藩金による奥羽伊達藩、水戸徳川家、和歌山徳川家他の多くの藩家の司法制度の勉強をしている。

佐賀に帰って後、指南から教諭職に叙され、鍋島直正公(閑叟)の目に留まり、次期世子直大公(十一代藩主)の近侍及び専任の司法教諭方として傍にあった。<鍋島直正公傳に詳しく掲載されています>

その甲斐あってか、直大公は明治維新後の明治政府に於いて最初の裁判所、つまり、横浜裁判所の初代長官となっている。これもひとえには当時の全国各藩の司法制度に通じ長けていたからに他ならない。

明治四年に鍋島家10代藩主直正公が死亡、佐賀における別邸葬儀指揮者として直大公の命により佐賀へ赴く。それまでは直大公の傍にあって江戸の本邸(本藩屋敷)にいたと思われる。

佐賀に於いては廃藩置県に於ける士族の狼狽と困惑困窮の中での田中清輔はどれほどに苦労したかが佐賀県史や佐賀銀行史、佐賀新聞史で垣間見る事が出来る。

佐賀県立図書館には佐賀の乱の折りの詳細が清輔の日記に事細かく記載されており、直大公に注進し、その指示により進軍していた明治政府軍への軍資金供出が一万二千両を2回(二万四千両)もなされている。

また、その日記には佐賀城下での佐賀の乱戦時出来事が克明かつ有り体に記載されている。

下記の資料は家扶の任命書及び佐賀の乱に於ける功労金が乱後数年経ってから金四百円が顕わされている。これは、旧鍋島藩家臣団の一万三千人ほどが処罰されている為の処置と思われる。

しかし、この時に已む無く佐賀の治安の為に佐賀の乱平定に動いた当時の警察官や司法方の方々は、佐賀の乱平定後も当時の政府を支持し、また、旧藩士の意識を無視したとして[村八分]的扱いを受けた為に家族共々危険となり、千葉県は旧佐賀鍋島藩領へ移住をせざるを得なくなったのである。この時、移住を余議された家族は30家族以上40家族にも及ぶという。鍋島直大公の指示により当時の家令職 張玄一氏の働きは大きく、東京の佐賀鍋島本邸家臣団出資の国立第33銀行設立にも大きく寄与した。尚、佐賀別邸の家臣団では田中清輔を初代頭取として国立百六銀行を設立した。

佐賀の乱後、清輔も佐賀に留まり着々と仕事をこなしていたが、当時の佐賀は殺伐としていたと思われる。

尚、家扶を引退後も鍋島家より終身年金が年三百円給付されており、更に田中清輔逝去後に孫安一郎への感謝と葬祭料を八百円も賜わっている。

今になって驚いているのは、明治10年に佐賀藩士族の田中清輔(当時56歳前後)が福岡藩士族として当時の大隈重信公に出向先の長崎(崎陽)で重篤な病気治療代と宿賃の借金を頼んでいるのだ。

早稲田大学図書館に収蔵されている口上書によって明らかだが、この時、何がどうなっていたのかがもっと知りたい所だ。尚、当時の時代背景や事情等も分かり次第に掲載の予定。

口上書によって借金をした田中清輔の子孫として、取敢えず明治10年当時の大隈重信公に感謝したい。

尚、田中清輔は大隈重信公と同じ佐賀城近く赤松町の平安山龍泰寺(龍造寺隆信公建立)に配されている。

田中清輔(及び孫の安一郎) 鍋島家より拝領のお墨付き



    
田中清輔の墓に記される墓誌 拡大版   拡大PDF版  htm版(横書き)

 

                    永田 暉明氏は第三代目佐賀市市長                                              田中清輔の墓と龍泰寺

東京の麻布十番の賢崇寺横には鍋島直正公の神葬墓所が有り、墓所顕彰碑には佐賀藩士の中で直正公に近く仕え、明治政府に出仕した高官(大隈重信公)及び要人と同格として記されている。尚、現在は墓所建設にともなって賢崇寺横には既に無く、佐賀へ移設したらしい。

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